中山よしかつ / 中小企業支援センター 公式サイト

新東京政策Web新聞

2000年12月01日

永田町ミレニアムの乱舞

加藤政変とは、いったいなんだったのか!?

平成十二年十一月九日未明、自民党の加藤紘一氏が総理・総裁の森喜朗氏に対して、造反劇を開幕させた。国会の定数は四百八十人。与党(百九十七人)対野党(百九十人)、過半数は二百四十人。

造反者の主役、加藤・山崎両氏が率いる派閥は合計で六十四人。 充分に勝算はあった。しかし十一月二十一日の投票結果は、百九十票対二百三十七票(欠席五十三人)、森総理の続投。

あらためてこの茶番劇をふりかえると、加藤氏は、自ら会長である名門、宏池会の数を背景に造反に打って出たものの実際は、宮沢氏から委譲された雇われ会長に過ぎなかったために、同会派で最後まで加藤氏のもとに残った者はたったの二十四人であった。

後半、主流派の野中幹事長がテレビ報道で「宮沢さんを裏切った加藤さんは許せない」と主張を繰り返した狙いは、宮沢氏を軸に宏池会を分裂させるためであった。その戦略は功を奏し、採決まえにして、宏池会は事実上の分裂状態に陥った。喧嘩の上手さはやはり野中氏のほうが上であった。

一方で自民党幹部の裏での策、根回し、揺さ振り等の工作も凄まじいものがあった。

民主党の中山義活代議士でさえ、ある自民党の大物幹部に突然声をかけられた。「中山さん、足の骨を折ったことにして、本会議を欠席してくれれば、次の選挙では対立候補に党幹部を応援に行かせない、いやいや対立候補を立てないようにするから」。驚くばかりである。中山は「馬鹿げてる」と一蹴した。

終わってみると一体、今回の永田町の争乱はなんだったのか。

加藤氏は自民党の堕落した既得権力体制に対して喧嘩を売った。しかし彼の頼みの綱もまた「宏池会」という自民党を代表する既得権力にあった。

批判すべき組織に依存しながらその組織を打破することなど出来る訳がない。これでは相手の目を見て喧嘩が出来ない。今回の永田町の乱舞は、加藤氏ひとりが演じた一人芝居のめずらしい茶番劇であった。

 

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